歴史

根源

武道としての拳法の歴史は、江戸時代の日本に始まった。
中国の名人、陳元贇(生年1587年)が1617年から1627年の間に日本の武道家に中国拳法を伝え、日本の主要な流派に影響を与えた(彼の肖像画は、岡山の野田権三郎(1842-1917)の起倒流の道場、武揚館の壁にあった)。
「道場には古色蒼然たる武揚館という額と、陳元贇(中国人。)の肖像画とがかかげてあった。」金光彌一兵衛(1958)「岡山縣柔道史」
「江戸では陳元贇という帰化人が福野、三浦、磯貝の三人に中国式の技を伝えた。三人はそれまで日本にあった柔術にその技を加えて、それぞれ福野流、三浦流、磯貝流の各流派を起した。このころから多数の名人が現れ、いろいろな流派が生まれた。」
金光彌一兵衛(1956)「旺文社スポーツ・シリーズ⑯ 柔道」

この図は、金光彌一兵衛著旺文社スポーツシリーズ16 柔道(1956)岡山縣柔道史(1958)に掲載されており、著者によると、この図は1784年に起倒流野田派の6代目、今堀吉之助が書いたものである。重要な点は、福野流の3代目寺田満英が名前を起倒流に変えたことである。
金光彌一兵衛(明治25年3月30日生まれ)は、起倒流野田派の範士であり、師は岸本重太郎(8代目野田久麿の一番弟子)。

大日本武徳会の柔道教本であった大正13年に発行された講道館十段、磯貝一著「柔道手引」が同じことが書かれている。 著者は、「柔術の起源」と題した最初の章で陳元贇が日本の柔術と起倒流拳法に与えた影響について述べている。

陳から始まり、福野、金光と偉大な名人達が編み出した技術は総合拳法の基のなっており、金光彌一兵衛が残した研究及び教えが中心となっている。金光彌一兵衛は総合拳法の象徴的な師である。

総合拳法の創始者であるサボウ・ミルチャが日本武道の研究を深める為、2005年に来日した。サボウは、来日前に長年、柔道、空手、合気道、ヨーロピアンボクシング、ヨーロピアン拳法の修行をした。
彼は様々な流派で修行をしたが、最終的に金光彌一兵衛先生が残した歴史と教えに自分自身を見いだし、偉大な金光先生の著書にあった、福野名人の中国拳法と日本柔術の融合は、総合拳法の形成の主なインスピレーションとなった。

経歴

2005年以降、サボウ・ミルチャは福野流及び起倒流の戦闘術の研究を行い、それらを特定し体系化しました。そこで彼はそれらの技が多くの武道及び武術の流派に取り入れられていることを発見しました。その後、それらの元の技を保存し、研究することが最大の目標になりました。 その目標が総合拳法の基盤となりました。
当身技は、ヨーロピアンボクシングと唐手の技を総合し、総合拳法の特徴でもある防御術は防御をしながら攻撃をする為に最良の体勢になる術です。
2009年に創始者は日本に拠点を置き、日本総合拳法協会を設立しました。 同年、千葉県市川市で最初の道場をオープンしました。2011年にサボウは関西への移住を決意しました。
滋賀県及び京都府で総合拳法を教えた後、兵庫県に総合拳法の本部を設置しました。